批評 / MAPPING SOUND INSTALLATION
文 / 久保田晃弘

「filmachine」

不規則な高低を有するモザイク状のフロア中央部に設置された、淡く光るスイッチに触れる。カチリという触感と共に、高さ5mの円筒状に配置された24個のスピーカによってつくりだされる高速な立体音響の塊が、圧倒的な存在感で空間を駆け巡る。これまでにも、何らかの物質的オブジェクトを伴う音響彫刻や、サラウンドのような2次元の平面音響作品、あるいは聴き手を椅子などに固定したコンサート形式の空間音響作品は数多く存在したが、物質を伴わず、聴き手が自由に移動できる状態での、純粋な3次元の音響のみによるインスタレーションを、これ程のスケールと緻密さで完成させた作品はこれまでに例がない。もちろん立体音響技術そのものには前世紀からの長い歴史がある、しかし今日のデジタル・テクノロジーによって、サイン波やホワイトノイズといったプリミティヴなサウンドが、その聴取のあり方と共に再定義されたのと同様に、今の耳によって立体音響の技術と体験も再定義可能であり、その可能性がまさにこの作品によって拓かれ始めた、といっても過言ではない。

「filmachine」の理論的モデルとしての「第三項音楽」の概要は、昨年12月に東京初台のICCで開催されたレクチャー/コンサートで始めて披露されたが、その実体はこの作品でようやく明らかにされたといえるだろう。スタティックな基本要素をボトムアップに積み重ねていくことで、堅牢な音響構造体を構築しようとするのではなく、複雑系の数理モデルが生成する非反復的、非持続的な数字列を時間軸上にフォーマットすることから生まれるデジタル・サウンドを並列させ、さらに3次元空間上における位置や速度(位置の時間微分)というパラメータを与えることで、最終的には時間と空間の双方にマッピングする。そこから生み出されるのは、時間と空間が渾然一体となって襞のようにもつれあい、からまりあいながら高速に変化し続ける、いわば時空の対位法による音響流動体とも呼ぶべき、運動と速度を核とする高密度の音塊である。

この「複雑なものを複雑なまま使用する」アプローチが形成するのは、通常の「作曲者が構築し、聴衆が解読する」という双方向のベクトルを持ったread/write型のコミュニケーションではなく、「作曲者も聴衆も発見する」という両者が同方向のベクトルを有した、共同型の知覚の創発の場である。確かに作曲者の時間と聴衆の時間が、同じスケールで流れているわけではないし、シンクロしているわけでもない。しかしながら、ここで行われた作曲行為もまた、初期値に敏感で、その後の挙動が予測困難な複雑系システムの特徴同様、2度と再現不可能な(確信≒決定のアナロジーを用いれば)決定論的プロセスであり、聴衆もまた、作品の時間スケールでそのプロセスを自らの体験としてトレースしながら、最終的にはおそらく作曲者とはまったく違った体験を、知覚のストレンジ・アトラクタを発動させながら、個人個人が独自に創発できるのだ。

物議を醸し出す可能性があるのは、24個のスピーカの外縁に設置された8本の白色LEDタワーの存在だろう。それほどまでに精巧な音塊であるのならば、目を閉じて耳に全神経を集中させて聴取すれば十分なはずだ。光の柱はインスタレーションに不完全性を与えこそすれ、本質的には不要なのではないか。実際、サウンド同様に数理モデルを援用した、高速で明滅する光の柱は、体験者に目を開くことを要求し、その光の運動は完璧であるはずの音塊、そして聴覚にある種の亀裂を与える。しかし人間の知覚は一般に五感と呼ばれている程、いくつかの種類に決してきれいに分けられるわけではない。音圧が触覚を呼びさまし、音色が色彩を生みだすように、複数の知覚は互いに連結し、体験はその総体としてもたらされる。光の柱が生みだす亀裂は、知覚を開く亀裂でもある。それは時間と空間のみならず、聴覚と視覚の対位法を生みだし、音塊の時空がさらに奇妙に捩れながら、知覚と体験の往還運動が開始する。

 

「autonomous sound sphere」+「filmissile」

もう一方の、東京芸大、IAMAS、山口大そして多摩美術大学の大学院生らによる、4ヶ月以上に渡る共同制作から生み出された「autonomic sound sphere − 自鳴する空間」は、稠密な「filmachine」とは対照的に、オープンでアンビエントな作品である。それはYCAMのホワイエの大階段、小階段、廊下に設置され、それぞれRASS、FIOS、CAGSと名づけられた3つのノード(サブ・システム)と、2つの中庭に設置され、システム全体の入出力となるDTCS/CTDSによって形成される3重のフィードバックループによって、YCAM全館が一つのサウンド有機体となるようにデザインされている。

まずはYCAMのホワイエにしばし座って空間に耳をそばだててみる。すると何やら、空間に溶け込んでいた背景音の中から、明らかにそれとは異なる人工的な音がハウリングのように成長を始める。しかしそれは決して発散することなく、未知の生物が頭をもたげ、あたりを伺うように、しばし持続し、ゆらめき、再び背景音の中に身を潜めていく。まるでこのYCAM全体を覆うような、不可視の音響生物が生息しているかのようである。オープニングの少し前、YCAMが雷雨に見舞われた際には、雨音がこのシステムとシンクロし、あたかも館全体がオーガニックな楽器のように鳴り響いたという。

実際、館内のどこかで聴こえた音が、いくばくかのディレイとプロセッシングを伴いながら放出されることから生まれる、アコースティックな反響とデジタルな音場の複合的なサウンドスケープは、想像以上に興味深いものである。BGMや環境音楽のように、何かを覆い隠そうとするかのような安定感をもたらすのではなく、巧妙に調整されたフィードバックループの不安定感は、空間に潜在する何かを発掘させるような感覚と共に、今回のプロジェクトのテーマでもある、公共空間に潜在する音の意味や役割の再考を促す。廊下側中庭に設置されたシステムの出力口として、館全体の音が集められているCTDSのパノラミックな音の多重性は、そのひとつの象徴でもある。
ホワイエには、渋谷+池上による「filmissile」と題された、もう一つのサウンド・インスタレーション作品も設置されている。可聴音を超音波にのせることで実現する、超指向性のチリチリとしたノイズが、ゆっくりと移動しながら空間に放出される。スポットライトのように直進し反射するサウンド・ビームは、時としてささやくように耳にからまり、またある時は体全体を包みこむように、「autonomic sound sphere」の音と混ざり合いながら、音と人との新たな出会いを生みだしている。

 
今回展示されている3つの作品はいずれも、今や日本では唯一といっていい、大規模なメディアアート作品の制作支援を続けるYCAMならではの、オリジナルな作品群である。とりわけ最初に述べた「filmachine」は、これまでどうしても理念が先行しがちだった、立体音響を使用したサウンド・インスタレーションのマスターピースと成り得る、世界に送り出すべき強度を持った作品である。
いずれの作品においても、プロジェクトはコラボレーションのかたちで進められたが、このコラボレーションが本当の意味での触発と創造の場となったことが、こうした各作品のクオリティとなって表れたといえるだろう。最後になったが、こうした理想的ともいえる制作の場を設定し支援した、阿部一直氏を始めとするYCAMのキュレータとInterLabを含む多くのスタッフ・メンバー、そして助成団体と協賛企業のみなさんに、作家同様の敬意と賛辞を送ることで、この稿を終えたいと思う。

 


久保田晃弘 Akihiro Kubota
1960年大阪生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。工学博士。多摩美術大学情報デザイン学科教授。アルゴリズム、インターフェイス、音響の3つをテーマにデジタル表現に関する考察と制作を行う。作品に、『マテリアルAV - 共鳴するインターフェイス』(2003年, ntt / icc)著書に、『消えゆくコンピュータ』(1999年、岩波書店)『ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック』(2001年、大村書店)などがある。現在、デジタル表現とコード・コンポジションに関するテキストを執筆中。
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