藤井光

Hikaru Fujii

ご自身の作品の寿命について考えることはありますか? どのようなことを考えていますか?
作品の寿命は、作品の受容の仕組みに条件付けられますが、震災から私が学んだことは、作品をアーカイブする記録媒体(美術館、ハードディスク)そのものが破壊されるという自覚です。
タイムマシーンで100年後に行けるとしたら、どのような形であなたの作品と出会いたいですか?
作品制作において100年前の「作品」を扱うことも多く、私は過ぎ去った時代の亡霊たちと出会ってきました。私が100年後に行く理由はありません。作品こそがタイムマシーンなのです
人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?
作品に「人格権」を認めるこの質問は新たな地平を開きます。なぜなら、作品が生まれ出ることをことを否定し破壊する検閲と自主規制を「胎児殺し」と告発することもできるのですから。
YCAMに作られる「メディアアートの墓」に、ご自身の作品の中で入れたい作品はありますか?
もしあるなら、どの作品をどのような形で入れたいですか?
芸術の長い歴史は、芸術の共同墓地の開発史とも言えます。それぞれの墓標に「未来派」「コンセプチュアルアート」「メディアアート」と書かれた一角が整備され、作品の親族(アーティスト、批評家、キュレーター、観客)がお参りしやすい場所に葬むってきました。しかし、生まれる前に検閲と自主規制によって殺されていった「胎児」は行き場がありません。「メディアアートの墓」というのは、そういった者たちを弔う場所として在るのでしょうか?
その他、ご意見ありましたらお聞かせください。