城一裕

Kazuhiro Jo

ご自身の作品の寿命について考えることはありますか? どのようなことを考えていますか?
プロジェクトによって立場は様々ですが、アーカイブの可能性については都度考えています。例えばSWOであれば、当初は、いかに記録できないか、ということを目指していましたし、最近の個人の活動(紙のレコードとか)では、残すことが主眼ではないものの、最終形ではコンピュータに頼らないことで、ある種の永続性を獲得できてるのかな、とも思います。
タイムマシーンで100年後に行けるとしたら、どのような形であなたの作品と出会いたいですか?
あくまで理想ですが、ある種の記録できなさを志向していたSWOが、参加型作品の都市伝説、のような形で色々と噂されていたりしたら、面白そうです。作家という立場からすると、きっちり記録されている、よりも、記憶に残っている、ことのほうが嬉しいかも。
人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?
上の話に引きつけていうと、忘れ去られる(輪廻転生できない)、ってことが、死、かもしれません。
YCAMに作られる「メディアアートの墓」に、ご自身の作品の中で入れたい作品はありますか?
もしあるなら、どの作品をどのような形で入れたいですか?
もし上のように死を定義(忘れられる)すると、この場合の墓は、死なないための何か、とも捉えられるので、自分にとっては大事なんだけど、ほぼ記録がなく、忘れされれそうなもの、具体的にはEYEさん澤井くんとのプロジェクトの、断片(センサーなり、ちょっと残っているフライヤーなり)を入れられると良いかな、と思います。
その他、ご意見ありましたらお聞かせください。
あえて、他の人の回答も読まず、素で書いてみました。書いてみると、死と墓ってのが=でもないなあ、と。祀るってところが強調されていると、もっと良いのかも、とも思いました。例えば、”メディアアートの古墳”、ってなると、より想像力が広がったり、しませんかね?その場合、メディアアートという王(神?概念?)を祀るために、その供物としての各作家による作品群がある、というイメージです。兵馬俑みたいな感じかと。