近森基

Motoshi Chikamori

ご自身の作品の寿命について考えることはありますか? どのようなことを考えていますか?
第一回文化庁メディア芸術祭に出展した「KAGE」という作品を昨年の20周年記念展に再制作して展示しました。実はこの作品は10周年記念展でも再制作しました。その都度、サイズが大きくなったり、解像度が上がったり、センサーの感度が良くなったり、素材が新しくなったりしています。まさに「転生」という感覚です。見映えや性能は変化(作者は改良と信じている)しつつも、そこで見せたい、体験して欲しい内容は変わっていません。いや、見た目上も、同じ部品が一切使われていない割には、ほとんど変わりがないかもしれません。そういう意味では「輪廻」ではないですが、確かに「転生」ですね。
さて、作品の寿命ですか。展示をする機会があるうちは作品は生き残っていると考えても良いのではないでしょうか。次回の「転生」のときまで、電源を落として仮死状態で眠っています。
タイムマシーンで100年後に行けるとしたら、どのような形であなたの作品と出会いたいですか?
ラジオの公共放送が始まったのがちょうど100年前の1920年。メディアアートもそんなフェイズにきているのかなぁと思っています。「100年前の作品にこんなのがあった」とニッチな雑誌で紹介されているのでも、「これ完全にパクリじゃないか⁉︎」と自分の作品の子孫のような作品を目の当たりにするのでも、誰かのページで写真を発見するのでも、100年も後の世界で自分の作品に出会えたら、それだけで何か残せたと思える気がします。
人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?
作品は「モンスター」のようなものかもしれませんね。
物体としての死もあるかもしれませんが、モンスターは大概蘇ります。
人々の中にいつまでも棲み続けるモンスターが生み出せれば、作者としては本望ではないでしょうか。
YCAMに作られる「メディアアートの墓」に、ご自身の作品の中で入れたい作品はありますか?
もしあるなら、どの作品をどのような形で入れたいですか?
どんな作品であれ、自分の生み出した作品を「墓」に入れたいとは思いません。けれども、これが「墓」ではなく「アーカイブ」と考えると、
入れても良いと思えるのは不思議ですね。
その他、ご意見ありましたらお聞かせください。
モティーフや作品テーマとしての「死」ではなく、作品自体に「死」(あるいは「生」)という状態をあてはめようという試みは、案外、メディアアートにおいては、なされてこなかったように思います。むしろ、制作プロセスや、その利用価値に重きが置かれていたのは、「未来」を体現する役割を担ってしまったメディアアートの性だったのかもしれません。
ここにきて、メディアアート作品の「死」について考えることが、その作品性を問うことになるのか、あるいはメディアアートという“ジャンル”の「死」を意味するのか、その辺りも気になるところです。