大脇理智

Richi Owaki

ご自身の作品の寿命について考えることはありますか? どのようなことを考えていますか?
起き上がり小法師は倒しても起き上がる
これは起き上がる意志があるからか
ミミズに喋りかけると、意識をもってうごくのか
自身は死を迎える、作品は私の分身か、
作品は作られてから別の時間を生き、有り様は変わらない墓
自身は変化するもの、作品は変化できないのか
私は昨日を引き継いで連続する意識
私の体には毎日昨日と同じ意識がやどるが、
作品の事物にも昨日意識がやどるのか
事物としての作品にも意識がやどるのか
意識が明確にあったらそれでも墓なのか
タイムマシーンで100年後に行けるとしたら、どのような形であなたの作品と出会いたいですか?
人類が生活の一部として活用して、それが誰かの発明ともしらず、少数の学者が研究している
人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?
多くの芸術が様式や様式を作り出す技術の中に生死を見る、芸術性というこというパラドクスに陥る。
ダンスを作るということはその様式が剥ぎ取られ、連続した生死が体験の対象となる。
様式を守ることが重要なのではない。
これは、そもそも振付家の仕事が、ビデオの発明されるまで、身振りと口伝で保管される芸術で、振付家が考える踊りを自身が客観視できないことに大きく由来する。つまり、ダンスは振付家とダンサーの対話の中でしか記述されないのだ。ここに存在ものは対話の中でやり取りされる、生の交換である。
名作として残る振り付けは、先人達との生の体現であり交換である。
白鳥の湖を踊る時、マリウス・プティパと対話することとなる。
ダンスに取り組む者は、連続する死、連続する再生は自明である。そこには作品が死ぬことは無い。ダンスが立ち上がる時、生と死が一体となっている出来事と体験。それは今までに人類が実現していないかもしれないがそれを目指している。
YCAMに作られる「メディアアートの墓」に、ご自身の作品の中で入れたい作品はありますか?
もしあるなら、どの作品をどのような形で入れたいですか?
skinslidesはダンサーのアレッシオ・シルベストリンを永遠の生を与える作品である。HDで撮影された55の動きのバタンの組み合わせにおいて、ダンスを無限に生成する。生成法もプログラムで記述されているため、アプリが動かなくなっても、プロジェクターがなくなっても、やはり何らかの方法で再現できる。アレッシオ・シルベストリンがこの装置のなかで永遠に踊り生きることであり、すでに墓である。
その他、ご意見ありましたらお聞かせください。
この展示にはすでにジレンマを抱えている。なぜなら、動かなくなった作品に価値を問うということは、無価値を発見した時点で価値が生じてしまうからだ。無価値のときは箱の中の猫が生きているのか死んでいるのか不明であったものを、フタを開け、目に触れることで答えを与えてしまう。