高嶋晋一

Shinichi Takashima

ご自身の作品の寿命について考えることはありますか? どのようなことを考えていますか?
消しゴムはせっせと身を削る。文字を消すごとに、その労働の成果として、きっちりその労働分だけ減る。例えばそうした、対価として現われる減少のあり方に、焦がれる者がいるとする。そのひとはこう願うだろう。「消しゴムのように、消すことで消えたい。消すことが消えることの準備であってほしい」。しかしそのひとの「減る」は、消しゴムの「減る」のような確固たる削減感をもっていない。何かすると減る。何もしないと減る。この逃れがたい削減のさなかにおいては、削減感はむしろ不確かだ。「ひとつの行為が自らの削減に結びつく者は幸いである、それがその行為を、贈与であると証拠立ててくれるのだから」。消しゴムが反論する。「幸いか否かは知らないが、それが結びつかないからこそ、徐々に徐々に削減していくというのは私と同じ条件であるはずなのに、それを知っていてもなおあなたは、自分自身というものだけはなぜか、ひたすら続くこの削減とはまったく別個に、間をもたず一挙に、瞬く間に消滅するものなのだと、そう信じているのだ」。
以上が、「自分の寿命」に対する、今のところの私の考えだ。そしてこの考えは「作品の寿命」には当てはまらなさそうだ。だが上記の話で、私の削減と私の消滅とが切り離されているのと似て、作品の生成と作品の存続とは無関係で切り離されているようにも思える。つまり、何かが作られているまさにそのさなか、生成の時と、一度作られたものを存続/持続させようとする営みとは異なるものなのだ。作品の生成は決して持続しないし絶えずそのつどのものであり、作品それ自体とも異なっている。作品はそれがどんな傑作であれ、生成の残骸でしかないのかもしれない。とすると、別の疑問が生じる。生成の残骸でしかない過去の作品を見て、私はいかにしてその生成を読み取るのか。あるいは、作品が生成の残骸でしかないことが予め組み込まれた作品を私はちゃんと作れているか、と。
タイムマシーンで100年後に行けるとしたら、どのような形であなたの作品と出会いたいですか?
「タイムマシーンで100年後に行けるとしても、自分がかつて作った作品に出会いたいとは特に思わない。出会えるのならば、100年後に生きる誰かが作った作品と出会いたい。もしくは、100年後にいる自分が、そのとき新たに作った作品と出会いたい」という答えが、とりあえず浮かんだ。だが、本気で自分がそう思っているとはあまり思えない。なぜだろう。
質問を少し改変してみよう。あなたがもはや存在しない世界において、あなたの作品がどうなっているか、知りたいですか?――特に知りたいと思わない。むしろ、100年後だろうと何万年後だろうと何100年前だろうとかまわないが、「自分がいない世界」というものを見てみたい。というより、自分がいないのに「見ている」とはどういうことか、その正確なところを知りたい。まさにそれを知りたいがために、作品を作っている。
世界は現にあなたよりずっとずっと広いじゃないか、自分のいない世界なんてそこらじゅうにあるだろう?――そのとおりだ。私がいない世界がいくらでも(無際限に?)広がっている。私のいるすぐ隣で何が起こっているかすら、私には見えない。にもかかわらず、私がいない世界を見ようとすると、それはすぐさま「私が見ている世界」になってしまう。もっと言えば、それがたとえ誰の眼から見たものでもない世界だったとしても、それを一度見れば、誰かの眼差しのもとにある世界として受け取ってしまう。さらに言えば、タイムマシーンで100年後の世界に行ったと想定しても、そこを「(100年後の)未来」ではなく「(100年後の)今」としてしか想像できないということ、それが諸々の「出会い」なるものを規定していることこそが、問題なのだ。それらのことを問題にしたくて、私は作品を作っている。
人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?
死は常に残るものとの関係で測られる。つまり「Xが死んでも、Yが残る」という形で把握される。例えば「作家が死んでも、作品が残る」「親が死んでも、子どもが残る」など。残るYがあることで、そのYの同一性を信じることで、自分の死後の時間というものをXは想定することができる。さらにそのことで「これまでのX(に固有)の時間」がいくらかは救われるようにも思える。ではXが作品だとしたら? 作品を生命(個体)と相似的に捉えるのがどこまで妥当なのか、この類推自体に疑問がないわけではないが、とりあえず当てはめてみよう。「作品が死んでも、○○が残る」。この○○には何が入るのか。それを見た誰かの経験か、その記録か批評か伝説か、影響下にあって生まれた別の作品か? 様々なものが代入可能だが、それを考えることに正直あまり興味が沸かない。
やや別の観点から考えてみよう。例えば「地球の幽霊」というものがもしも存在するとしたら、それはどんなものだろうか。地球が消滅したら何に対して化けて出るのか? 他の惑星に対してかそれとも宇宙に対してか。幽霊は通念とは違って、基本的に世俗的なものだ。なぜなら、生き残っている者の存在、もしくは「この世」をアテにしてこそ幽霊は化けて出れるからだ。では、生き残っている者が誰もいないのに、そもそも地球という場がないのに幽霊が出現するとしたら? 例えば神のような超越者に対して化けて出れたら、それはもはや幽霊ではないのではないか。何であれ、残るものがあるということは残る場を想定できていることだとすれば、すべての幽霊は場につく地縛霊だということになる。
しかしながら、「私が死んでも、この世がある」という想定と「私が死んだら、あの世にいける」という想定とが、等しく幻想であるとしたらどうだろう? 残る場なき作品というものが想定しづらいのは、作品にとってこの世はすでに幾分あの世だからなのかもしれない。
YCAMに作られる「メディアアートの墓」に、ご自身の作品の中で入れたい作品はありますか?
もしあるなら、どの作品をどのような形で入れたいですか?
その他、ご意見ありましたらお聞かせください。