三宅唱

Sho Miyake

ご自身の作品の寿命について考えることはありますか? どのようなことを考えていますか?
自作の寿命についてはあまり考えることはありません。ただ、映画館や映写システムがなくなったら映画は終わりなので、自作よりも映画館をどう残して行くべきか、ということはよく思います。具体的には何もできてませんが!
せっかくの機会をいただいたので自作の寿命、映画の寿命についても考えてみました。
内容面について。時代遅れになってしまったと自分で思った時は寿命だろうな、とひとまず考えたのですが、とはいえ、作品を作った時点で自分が与えた意味なんて時代によって人によってどんどん読み替えられていくものだとも思います。となると、いくらでも生き返る可能性はあるんだろうなという考えに、ひとまずいま至りました。
物質面について。35mmプリントの持つ宿命について考えます。保存媒体としてはおそらく最も優秀だけど、ただし上映するたびに傷がつくモノです。だからといって、上映せずにそのまま守られるべきものとも思えない。傷つきながら変化しながら前へ進んでいくほかないという運命が、映画の本質的な面白さに関わっていると思います。いうならば、フィルムの場合はどの上映も実は一回限りの出来事であるというライブ感が映画らしさだと思います。人間の生とは違う寿命感で捉えた方がいいのかもしれない。生まれて死んで生まれて死んで……というのが映画の命の感覚なのかなと思います。漠然としてますが。
データでしか持っていない作品の寿命については、単純に管理・保存が面倒くさいです。
タイムマシーンで100年後に行けるとしたら、どのような形であなたの作品と出会いたいですか?
100年後にも映画館が普通の生活空間に残っていればいいなとは思います。特別な場所でなくて、デートや昼のサボりの目的地としての映画館が町にあればいい。
あと、以下はオマケみたいな話ですが、海賊版DVD屋みたいな場所に自作が並んでいたら、ちょっとテンション上がるかもしれません。それと、俳優たちの孫などが、じーさんばーさんの若き姿、生前の姿の出演作として面白がって見てくれていたら、ちょっとほっこりするかもしれません。
人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?
上映プリント、上映データ、映画館が一切失われた状態が死だろうと考えます。死というか、蘇る可能性がない状態。
YCAMに作られる「メディアアートの墓」に、ご自身の作品の中で入れたい作品はありますか?
もしあるなら、どの作品をどのような形で入れたいですか?
映画作品についてはとくにないです。もしフィルムが墓にあったら、ゾンビ映画の墓みたいな蘇り準備室とか、時限爆弾装置、不発弾のような存在にみえそうです。
「ワールドツアー」でラボに作ってもらった白い壁、黒い窓、ガラス窓はおそらく再利用不可能で廃棄になると思うので、墓の一部になり得るかもしれません。あのガラス窓が単にどこかの空間でぶら下がっているだけで、良さそう。
その他、ご意見ありましたらお聞かせください。
映画の話ばかりの拙い回答ですみませんが、少しでもご参考になれば幸いです。