菅野創

So Kanno

ご自身の作品の寿命について考えることはありますか? どのようなことを考えていますか?
「寿命」というと難しいですが、例えばインターネットのシステムを使ったシステムの移ろいの早さは、作品としてアイデアを固めるにはあまりにも早く、実験的な価値が高くとも、翌年とかにはそのままでは動かない、などの状況が起きうるので、困ったな、とも思うことはあります。
自分が元気に働ける限りは、自分の作品を展示したいというオファーには全て答えられたらとは思っています。その後のことについては、あまり考えたことがありませんでした。昨年YCAMで作業中、三上さんの「欲望のコード」の再現テストがされていましたが、その時は、「三上さんくらいグレートな作品を作ると、作家が死んでも作品は生き続けるのだな、周りの人間によって」と冷静に観察していました。
「寿命」というと生きたもののように感じます。機能して、機能不全に陥るからこそ生と死が感じられるのかもしれないですね。絵や彫刻は寿命という言葉であまり語られないと思うし、そもそも安定性の高い素材を使ったそれらの作品はそれ自体モニュメントのようで、墓っぽい側面があると思います。メディアアートは機能するがゆえに生があり、その生の条件は、その時代のテクノロジーの入手性に依存していて、移ろいやすい不安定なメディアが扱われる傾向があります。時間が経ってから見ると、それがメディアアートの面白いところでもあるとも思います。
僕は作品で、ロボットを多く扱いますが、展覧会の度にどこかしらメンテナンスをします。これはちょっと治療、って感じがします。最近は爺さんになったらロボットドクターになろうかな、需要あるかなぁとかちょっと思ったりしたことがあります。
タイムマシーンで100年後に行けるとしたら、どのような形であなたの作品と出会いたいですか?
もし100年後に自分の作品と出会えるとしたらそれだけで感激です
人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?
難しいですねー…
人の死と違う部分として、機能不全になって一旦死んだとしても、修理によって息を吹き返す、むしろよりいいパーツがついてパワーアップして生き返るみたいな、こともあると思います。ただパーツの性能が良くなることで失われるものもあったりすると思うので、難しいところですが。その点でいうと、死というと再起不可能な印象があります。作られたけど、誰も興味を持たず、作家本人ももう公開しようとすら思わない、となった場合、あるいはそれが死かもしれません。ちょっと悲しいですね。
YCAMに作られる「メディアアートの墓」に、ご自身の作品の中で入れたい作品はありますか?
もしあるなら、どの作品をどのような形で入れたいですか?
死に関して、上記のように思ったので、僕の作品で墓に入れたいと思う作品はありません。
ただ、輪廻転生と聞くと話は別です。多数のロボットを使う作品があって、その中に動かなくなったものがあったりします。基盤が壊れてて修理しようのないものあります。ただ何箇所も展覧会を巡ってきた我がロボットを、おいそれと捨てれません。もしそいつの生まれ変わりの可能性が模索されるのなら、それは願ってもない供養になるのかな、とも思います。
その他、ご意見ありましたらお聞かせください。