三原聡一郎

Soichiro Mihara

ご自身の作品の寿命について考えることはありますか? どのようなことを考えていますか?
過去作品よりもこれからの作品をつくることの方に自然と意識が向かってしまうのであまり考えないですが、作品の根幹はシンプルな技術だと思っているので、何時の時代でも何らかの実装は可能だろう?と思っています。ミクロな視点だと制作中でさえ必要数の同素材を手に入れることは今でも困っています。作品詳細を、ある体験を獲得する為の意図に基づいた機能的な視点で資料を包括的に纏めるべきだと最近感じてますが、実際手は付けていない状況です。
タイムマシーンで100年後に行けるとしたら、どのような形であなたの作品と出会いたいですか?
出会いたいとは思いますが特に希望はありません。100年後の人間?が勝手に楽しんでたり、悩んでいたり、何かの行動のきっかけになっていたら何故かを知りたいです。
人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?
作品は人間の営みによって生きると思うので、活用の可能性が理論的にある限り生き続けると感じます。よって、極論ですが作品の死は人類の滅亡と同じタイミングだと思います。
YCAMに作られる「メディアアートの墓」に、ご自身の作品の中で入れたい作品はありますか?
もしあるなら、どの作品をどのような形で入れたいですか?
今はありません。上記の定義以前に、作者である自分がまだ生きているので、予算と作業時間が潤沢にあれば全作品が難なく展示可能だと思ってます。全作品は展示していないものは全て仮死状態の様な認識なので場のメタファーだと蘇生を前提にした場所である冷凍庫とかシードバンクには入れるのかなと思います。あくまで言葉の問題として。
その他、ご意見ありましたらお聞かせください。