高嶺格

Tadasu Takamine

ご自身の作品の寿命について考えることはありますか? どのようなことを考えていますか?
また悩ましいことを・・・これに回答することは、自分のセコさを露呈することになるぞ、、と、ビビリながら回答してみようと思います。 私のバックグラウンドはパフォーマンスです。インスタレーションやメディアアートの形をとることもありますが、ジャンルの定義はさておき、どんな形をとろうとも、発想のベースはパフォーマンスです。僕にとってのパフォーマンスは、「その場にいること」つまり同時間性で、作品と鑑賞者が同じ空気を吸っているという状態で成立するもの、その状態を想像しながら作っています。なので100年後に成立するかどうかといったことは関心外、5年後すら空気が同じであるかどうかわからないので、基本的には「いま」ということになります。人間のライフスパンでいうところの「いま」、賞味期間が続くとしても数ヶ月から1年くらいの感覚です。 「いま」を成立させるためだけに集中して作っていて、作っている最中はそれで問題ないのですが、問題(この質問における命題)は作ったあとです。小説とジャーナリズムとの関係にも言えることかもしれないが、「いま」を切り取ろうとすればするほど、具体性が求められ、抽象性や普遍性といったものは二の次になる。「いま」に切り込んだものは、その切り口の鋭利さゆえに、一ヶ月後には錆び付くということもある。ジャーナリズム的に言うとそれは本望で、自分が錆びつこうとも相手に決定的な傷を負わせることができたのだから役目を全うしたのだと、胸を張ればいいわけです。 しかし美術は、なんかそういう風にすっきりいかない。舞台と美術を両方やっている自分にとって、この二つの間にも違いがあります。舞台作品の場合は、ある意味公演が終わったらなにも残らないと割り切っているからそれほど葛藤はない(記録ビデオこそ見るのがつらい)、しかし美術は、下手にモノが残っていたりするので、スケベ心がくすぐられてしまうんですね。残しておけばいつかカネになるんじゃないかとか。いやそれをスケベ心と言う方がおかしいんで、自分が時間とエネルギーをかけて作ったものをカネに替えることにやましさなど感じる必要はないのです。世話になった人にも恩返ししなくちゃいけないし。むしろ舞台の割り切りかたの方が常軌を逸してるわけで。そんなわけで、「自分の作品の寿命」についての質問には「通常、発表後1年くらいまでの間(ただしモヤモヤが残る)」とお答えしておきます。
タイムマシーンで100年後に行けるとしたら、どのような形であなたの作品と出会いたいですか?
人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?
パフォーマンスは基本的には生と死が同時に起こっていて、その時間の連続を作品と呼んでいいと思います。しかし考えてみるとこの質問は難しいですね。家や冷蔵庫などの「モノ」と「作品」をどう区別するかということ、逆にリサイクルのきかない作品など壊れた瞬間に部品レベルでも死んでいるということ、いや巨人軍と同じく不滅なのだという様々な立場があるということくらいしか回答できません。作品の「コード」が1ミリも理解されなくなったときを死と呼ぶ考え方もあるかと思います。(ちなみにデジタルというのは時間の概念と無縁で、したがって死の概念とも無縁であるという吉岡洋さんの話に納得したことがあります。)
YCAMに作られる「メディアアートの墓」に、ご自身の作品の中で入れたい作品はありますか?
もしあるなら、どの作品をどのような形で入れたいですか?
その他、ご意見ありましたらお聞かせください。
(公開されない前提のコメントですが)この企画面白いですね。墓に入れるのにいい作品、いまちょっと思いつかないですが、全部入れたいくらいです