やんツー

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ご自身の作品の寿命について考えることはありますか? どのようなことを考えていますか?
メディアアーティストとしてキャリアをスタートした当初はそんなことを考える余裕もなく、ただがむしゃらに自分が面白いと思うものをとにかくつくることしか考えていませんでしが、キャリアを積むにつれて徐々に美術の文脈を意識し勉強するようになってからは「寿命」について多少は考えるようになりました。(現在は美術家と名乗っています。)あと、やはり昨今の三上晴子さんの作品郡や國府理さんの《水中エンジン》など、既になくなった方々の作品を多くの労力と費用をかけて残そう、或いは再制作しようとする動きを見ていると考えさせられることは多いです。 メディアアートはその時代のテクノロジーと共にあるものなので、絵画や彫刻にくらべれば寿命はもちろん短いし脆い。また寿命が長いからといって優れたメディアアートであるともいえないし、寿命が短くても素晴らしいメディアアートはたくさんあります。「寿命が長い」ということの価値を作家がどう捉えるかでそれが制作に反映されて、作品の耐久性が変わってくるのかなと思います。自分の作品に関して言えば、作品そのものは別に残ってなくても、設計図やドローイングマシンが描いた絵画、コンセプトや思想が何かしらの方法で保存されればそれで良いと思ってます。
タイムマシーンで100年後に行けるとしたら、どのような形であなたの作品と出会いたいですか?
100年後、まず自分が制作した電気で動く類の作品は動く状態で保存はされておらず、たまたま自分の作品を何かの資料で発見した研究者やアーティストが、価値を見出して再制作をしてどこかで展示している場面に遭遇したい。
人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?
メディアアート作品に関して、よく不具合で動かなくなっている状態で「調整中」という紙が貼られてあたかも作品としての価値がない、つまり一時的に死んでるような扱いをみることがありますが、作家本人が「動いてなくても作品としては成立してますよ(死んでませんよ)」といえばそれは作品としてそのまま展示されるべきだと思います。絵画や彫刻は破壊されない限り死なないと思うので、メディアアートも破壊されない限り、動いてなくても死んではいないとプレゼンテーションすべきです。なにも動きの要素のみで作品の本質を語らなくても良いと思っています。美術なのだから動かなくても視覚的、造形的な美はなくなっていない(死んでない)はずで、死なせてはいけない。(調整中の貼り紙をしてはいけない。)死は作品が完全に破壊された時。完全に作家が作品の本質をどこにおいてるかによると思いますが。
YCAMに作られる「メディアアートの墓」に、ご自身の作品の中で入れたい作品はありますか?
もしあるなら、どの作品をどのような形で入れたいですか?
今のところ自分の過去の作品で完全に動かない作品はない(手を入れればまだ動くレベル)なので墓に入れたい作品はないです。
その他、ご意見ありましたらお聞かせください。
「メディアアートの墓」というフレーズはかなりキャッチーで面白い!と思ったけど、メディアアートの死ことをいろいろちゃんと考えていくと厳密な死は成立しないのではと思いました。メディアアート自体歴史が浅いので頑張れば再現(死んだ状態から蘇生)できそうだし、、メディアアートを墓に入れる=意図的に殺すということなのかなとか、、、。