DDR Rundfunkzentrum (ドイツ民主共和国ラジオステーション)
♦外観
フランツ・エーリッヒ(1907-1984)の設計により、1951年から1958年にかけて建てられたナレパシュトラーセのドイツ民主共和国(DDR)ラジオステーションは、現存のベルリンの特徴ある建造物のなかでも、特に再注目を浴びているものである。
トレプトアー公園とプレンターウァルトの向かい側、工産業地域と発電所施設の中間という(あえて目立たないような)意外な場所、緑の帯をなすシュプレー河畔の景色に、ステーション全体が埋まって見えている。塔のある9階建ての建物の周囲に建造物群が効果的に配置され、河岸の緑と自然がすぐ近くにあり、建物の片側の窓からはレジャー及び保養地の景観と帯状に続くクラインガルテンの並びが一望できる。
♦建築様式と政治
明るい色の頑丈な打ち放しコンクリートに続いて組み合わされた暗赤色のクリンカー煉瓦から察するに、設計と建設の段階での意図として、モニュメンタルな建造物としての近代的記号性と、至る所に見られる建築芸術としての造形性が見られる。立派な正面エントランスゾーン、広々と設計された交通エリア、えり抜きの建材と優秀な熟練工の作業技術により仕上げられたスタジオ空間の内装を見ると、戦後のモダニズムの総合芸術が実に個性的で質の高いことが良くわかる。この建物群は冷戦期の分割されたドイツの首都に、それも放送機能を妨害されやすい時代に建てられたのである。
さらに驚くべきはこの建物の建築基本姿勢である。なぜなら、これがスターリン時代の後期に、国の建設法のもとに建てられたからだ。スターリン時代のツッカーべッカー(zuckerb劃ker)風建築の跡は全く見えず、かといって、うわべだけ素晴しく見える、国の伝統的建築の借り物でもなければ、当時のドイツ民主共和国の建設原理の印を見せつけようとしたのでもない。当時は国も党も形式主義論争を行い、少なくとも主要建造物については当然のごとく、社会主義リアリズムの志向美学を政治色としてしみ込ませていた。
ドイツ民主共和国ラジオステーションの設計と建設は、言い換えれば、冷戦時代の政治志向美学的な狭い発想を拒否し、今日に至るまでずっと、東西紛争時代に書かれた建築史に見られるような単純な解釈をされることがなかった。地形に合わせた構造、建材の扱いからディテールのデザインに至るまで、どれを見ても、これらの建造物群が、単なる政治的動機付けによる趣向文化や、収容所精神から出たものでもなければ、それに見合うものでもないことははっきりする。自由に配置された建物群、煉瓦面のところどころに控えめに使われているコンクリートの配分、先史時代からの縦と横の力による建築構造をテーマとし、ほとんどポストモダンとも言える感じを与えている。さらに内部の装飾については、覆うように、また同時に覆いを取り去るような感じに仕上げられている。ここから社会主義一党時代のこの建築に、微妙な非順応主義のあることが分かるのである。
♦建築家フランツ・エーリッヒ
ナレパシュトラーセのラジオステーションの歴史と建築家フランツ・エーリッヒ、そして彼の建築物についての調査は、開始されたばかりである。フランツ・エーリッヒは、バウハウスの学徒で、短期間ではあったがワルター・グロピウスとハンス・ぺルツィックの事務所の従業員でもあった。KPDメンバーであり、ブーへンウァルトに強制収用され、懲罰部隊999の一員として参戦したが、1945年以降ドレスデン市復興部長となり、1950年にドイツ民主共和国の土木建築における重要な地位について人民企業の工産業建設責任者となった。1952年に締結されたナレパシュトラーセラジオステーション設計の仕事を見ると、特に四分の一円形の放送室がある建物の、面の構成と配分に1930年代、1940年代のモニュメンタリズムを通過して現れたバウハウス-モダンの影響がいくらか感じられる。さらに、形式主義論争で認められ、ドイツ民主共和国でも再び生産を許されるようになった伝統を取り入れ、芸術性のある内装をしつらえたことも注目すべきであろう。
♦ベルリンのラジオ放送
ドイツのラジオ放送史と、そのプロパガンダのための使用は、いずれもベルリンで始まった。ナレパシュトラーセのラジオステーションは、その意味で重要かつ独特の節目をその発展段階で刻んでいる。放送の専門家たちの話では、このセンターの大放送室、小さなミュージックスタジオ、放送劇スタジオ、付属品の擬似音の小道具などは、昔も今も、どこよりも優れた響きを誇り、どこよりも素晴らしく整えられた録音室を備えているという。
ラジオ放送は、東西ドイツのラジオ部門で交わされてきた。1946年に作られたRIAS(アメリカ軍占領地区のラジオ放送)は、1948年よりシェーネべルクのクフシュタイナーシュトラーセの改築された放送局で放送を始めた。1953年に州放送局SFB(自由ベルリン放送)が生まれ、1957年よりマスレーンアレーにある、改築後のドイツ最古の放送局(1929-1931、ハンス・ぺルツィックにより建造)で放送活動を開始したものの、数十年にわたり、ケぺニッカー・シュプレー河方面のベルリンラジオステーションのプログラムの方に押され続けることになった。今日閑散とした人気のないナレパシュトラーセのラジオステーションは、ベルリンの記念建造物の景観と、ドイツ民主共和国時代の建築史をたどる鍵となっている。
文/イェルク・ハスぺル(ベルリン州立保存管理官)
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