時間学について

広中平祐

人間の一生には限りがある。しかも、かって、ある高僧が言ったように「人は生まれ生まれて、生の始めを知らず、死んで死んで、死後に冥い」。人間は、自分の生前も死後も全く知らされない上に一生の時間が限定されているので、時間はしばしば深刻な意味をもち、修行僧のように厳しい試練にも耐える人が出現し、普通の人でも切磋琢磨することが生き甲斐となり得る。喜怒の激情が昂ぶる時があり、享楽の深みが増幅する時間がある。人は、ときに一刻を競い、ときに時間に追われ、ときに時間を忘れ、ときに時間を楽しみ、ときに過ぎた時間を悔い、また時間をかけて癒される。

時間には未知な要素が際限なくある。それもただ学問としての時間に関する研究課題や未解決問題が多いというだけではなく、世間の誰でも時間の不可思議に対する素朴な疑問を一杯抱えている。疑問の種類にも枚挙の暇はない。空間の中では前後左右と意のまま自由に移動でき、少し高度の技術を使えば上下の移動も現代ではほぼ日常茶飯事であるが、それなのに何故、たった数分まえの失態さえも時間を逆行してやり直せないのだろうか。時間は絶えず前へ進むというが、究極の微小世界においても時間に前後の揺らぎは一切無いのか。化学反応の極微小世界では熱力学でいうエントロピー増大の法則に揺らぎがあると考える研究者もいた。タイム・マシーンで過去や未来を見るというのは永遠に空想でしかないのか。時刻は一体どこまで厳密に決めることができるのか。時間はどこまで正確に計れるのか。現在の最先端の物理学と工学を駆使して、現実に計れる時間の正確さの限界は何か。

私の専門である数学においても時間感覚の関与は絶大である。微分方程式論や幾何学に変数tが 々現れるのは、たとえ抽象的で比喩的であっても、その理論が時間、すなわちタイムに沿って変化する現象のイメージがある。そのような変動現象に内臓されている一般法則を数学的に記述するという意識的または無意識の思考パターンがあってのことである。確率論は、これから起きる未知への期待と現実の宿命的な偶然性との関係を理解し記述し利用しようとする数学的努力によって発展した。統計学は、時系列を重視したデータ解析の方法が予想にも役立つという信念のもとに発展したと言えないだろうか。非ユークリッド幾何学が数学の世界を超えて注目された理由の一つは相対性理論によって、時間と空間、エネルギーと物質の関係に対する発見と理解を高度化したことである。エネルギーを時間軸無しで語り尽すことは、始まりも終わりもない人生を要求するほど無味であると思う。

ファジー理論が注目されたのは、時間軸に沿って変化する現象の特定時点での記述において経験則に基づく柔軟性をもたせることが現実的であるとの認識からであったと私は理解している。数学的記述の理論としてのフラクタル幾何学が注目された理由の一つは、未来への設計が過去の解釈に基づいて形成され、次々と現実となる未来の発見に影響されて過去の理解が深化するという、フィードバックの繰り返しを記述するのに有効だったと私は考えている。関数変換の理論として生まれたウェーブレット理論が注目された理由の一端は、変化がサイン曲線のように一様で前後に対称な現象としては扱いきれないダイナミックな変動が現実に溢れているという認識からだと考えている。ダイナミックな変動は至るところに見られる。地球の歴史を研究する学者が指摘する気候ジャンプでは、徐々に氷結した地球表面が急速に温暖化する。経済現象としてのバブル崩壊のスピードは、その頂点に到達するまでとは様変わりの速さである。それらは沖合から押し寄せて盛り上がった波が岸でどっと崩れるように感じられる。成長する子供が思春期を迎えたときの身や心の変化も、人柄と環境によっては、次第に温められた湯が急に沸騰するようなダイナミズムを見せることがある。カタストロフィー理論は、この種の現象をモデル化するための数学言語として創られたと聞いている。

時間学は時間の意味を浮き彫りにする諸々の研究と啓蒙と位置づけると、課題と可能性は無限である。

「時間と時―今日を豊かにするために―」
(学会出版センター)より転載

(ひろなか へいすけ/[財]数理科学振興会理事長)

 

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