音楽や映像、またダンス、演劇などは、タイムベースドアートと呼ばれ、時間の深いかかわりなしには構造的に成立しないアートです。しかし、文学なども、文字が印刷された本だけで成立しているか、といわれれば、人がその本を読むという行為の時間が生まれて初めて文学になるのではないか、といえるのかもしれません。
では、絵画や彫刻といった造形芸術を代表するジャンルではどうでしょうか。一見絵画は、それだけで時間を超越したように空間的に成立し、存在しているかのように見えます。しかし、そこには人が視るという時間性は、作品の空間的本質自体に反映していないのでしょうか。ストローブ/ユイレ監督の映画「セザンヌ」(1989)では、実際に作品が展示されている美術館のギャラリーで、壁とそこに吊るされたセザンヌの絵画を、固定されたショットのまま延々と撮影します。見た目には何の変化も起きない映像が続くままです。これはいったい何を表現しようとしているのでしょうか。
たとえばモダニズムにおいては、特に20世紀戦後のアメリカンモダンアートの中では、あらゆる他の要素を排除し、絵画を純粋な平面に還元しようとする問題が追求されました。絵画は平面であるだけでよく、視る人との知覚的、経験的かかわり、展示空間などの距離と時間は本質的ではないというのです。マイケル・フリードは、その理由から、ドナルド・ジャッドの作品を「シアトリカル(演劇的)」と批判します。しかし純粋なる空間表現としての平面の存在に対して、ほんとうに時間の介入は必要ないのでしょうか。
芸術史においては、産業革命の発端となった自動機械=オートマトンの発明が大きな変化をもたらします。人が造作しなくても、自動的になにものかを生産するという機械の存在が、ひいては19世紀中葉〜末にかけての写真や映画といった複製技術を生み、メディアが介在して現実という時間を物質的空間に写し取るといった、これまでに存在しなかった芸術表現が生まれたのです。写真に時間を与えると映像になり、画面は時間を持った平面となります。さらに現在では、写真や映画だけでなく、人はコンピュータを介して何かを制作したり、プログラムしたりします。そこにはもう静止した空間=平面はなく、さまざまなプロセス(過程や変化)を走らせる、共通の約束事としてのプラットフォームという非物質的、数学的な視えない平面があります。何かが時間によってプロセッシングされること自体が作品となるメディアアートにおいて、それにかかわる人(鑑賞者)のアクション=時間は、科学の内部観測のように、作品の必然的内部としてまきこまれ、すでにその本質的組織の一部となっているのです。
(あべ かずなお/山口情報芸術センター プロジェクトキュレータ)